CASE STUDY

農作業が人を癒す。ストレス社会で注目されるアグリヒーリングの可能性

FUTURE農園体験生産支援

新型コロナをきっかけとしたライフスタイルの変化を受け、メンタルの不調を訴える方が増えています。そのような中、簡単な農作業を行ってストレス軽減につなげる「アグリ(農業)ヒーリング」という取組みが注目されていることをご存知でしょうか。

今回は、「アグリヒーリング」の実用化に取り組む順天堂大学緩和医療学研究室・協力研究員の千葉吉史さんにお話を伺い、農作業を通じて人の心がなぜ癒されるのか、どのような農作業がストレス軽減に適しているのかなどについてご紹介いただきました。

千葉吉史(ちば よしぶみ)さん
農業生産法人経営や地域の農業コンサルティングを行いながら、順天堂大学医学研究科緩和医療学研究室の協力研究員として「アグリヒーリング」の実用化に取り組む。また、多くの企業とともにWell-being(幸福感)推進を行う活動を行っている。
※マスクは撮影時のみ外しています。

ストレスを感じているとき、私たちの身体では何が起こっている?

― 「アグリヒーリング」とは、どのようなストレス軽減方法なのでしょうか。

アグリ(農業)+ヒーリング(癒すこと、癒し)、つまりは自然豊かな農村へ向かい、田植えや野菜の収穫などといった簡単な農作業を体験することで、ストレスを軽減したりモチベーションを上げたりするストレスケアプログラムです。

2017年から農作業とストレスに関する実証実験を重ね、短時間の農作業でストレスが軽減されることをエビデンス(数値)で明らかにできました。この実験結果を基に、癒しを目的とした農業体験プログラムを実用化させ、現在は日本各地で展開しています。

― 花や野菜を育てることがストレス解消になっていた、という方も多いと思います。

伝統的に欧州では自然と癒しが注目されてきた経緯があり、特に1970年代のイギリスでは、フラワーセラピーを中心とした園芸療法が行われていました。日本でも1990年代初めに園芸療法が紹介され、ストレス軽減や認知症の改善に効果があったという報告もありました。

ただ、“効果”とはあくまでも参加者の主観や印象が反映されるアンケート結果から得られた感覚的なデータが多く、ストレス軽減効果について具体的な生体数値では把握できていなかったのです。他には、脳波や血液・髄液によるストレス測定は可能であったのですが、データ収集時の参加者側の負担が大きく、現実的ではありませんでした。

近年、唾液からαアミラーゼやコルチゾール、免疫グロブリン(IgA)といったストレス物質を測定できる技術・計測機器が開発されました。そこで、農作業の前後で唾液を採取してストレス値を測定し、具体的な数値データでストレス軽減効果を示すことができるようになったのです。

― 自分のストレスが軽くなったことを数値データで知れるのですね。

はい。私たちの脳はストレスを感じると神経に作用し、さまざまなストレス物質を分泌することが分かっています。近年開発された新技術によって、唾液からその変化を計測することが可能になりました。

<唾液で計測できる主なストレス物質>

■ α-Amylase(アミラーゼ)
短期不快感=不快な刺激では上昇し,快適な刺激では逆に低下する

■ Cortisol(コルチゾール)
心理的・身体的ストレスにより増加、心の緊張、やる気の可視化など

■ sIgA(免疫グロブリンA)
免疫状態などを確認。ストレスにより増減する

*上記以外にオキシトシンやクロモグラニン(幸福度や体の緊張度合いなど)も計測可能

具体的な事例をご紹介すると、心理的・身体的ストレスで増加していたコルチゾール(心理の緊張)値は農作業後に大きく減少し、1週間ほど低い状態が持続しました。

また、農作業を行った後からオキシトシン(幸福ホルモン)値は増加し、帰宅後に一番高い状態となりました。

実は、ストレス軽減と幸福度向上が同時に起こるというのがアグリヒーリングの大きな特長であり、アロマテラピーなど他のストレスケアを行っても、ストレス軽減と幸福度の向上は同時に起こりにくいと考えられます。都会にあるサービスではなく、わざわざ遠い所へ足を運んで農作業を行うことによる最大のメリットは、この同時性にあるのです。

景観鑑賞・種まき・収穫した野菜の調理など多彩なプログラム

― 実際にはどんな農業体験プログラムがあるのでしょうか。

私がコンサルティングとして携わっている長野県飯島町では、ストレスケアワ―ケーションの農業体験プログラムとして50案ほどが用意されていて、将来的には100案程度まで増やすことを目標にしています。例えば、景観鑑賞、種まきや収穫などの農作業、収穫した野菜の調理、竹細工やそば打ちなどがプログラムとして体験可能になっています。

2022年10月1日に惣三郎沼公園(秋田県)で開催された農泊特別体験プランでは、秋に屋外で鍋を作って食べる秋田の定番イベント「鍋っこ遠足」を体験。

ひとりで行う農作業にはストレス軽減効果が期待できますし、ゲーム要素を加えた共同作業は仲間意識やモチベーション形成に繋がるなど、農業体験プログラムから得られる効果は非常に多彩です。さらには、体験後にチームで一緒に食事をすることで、幸福度や活力の増進が起きやすくなるという実証結果も出ています。

― ひとりでコツコツ作業するのが好きな方にとって、チームで行うプログラムはストレスになってしまいませんか?

作業適性はとても重要ですので、プログラムを受ける方には事前問診として現状のヒアリングを行っています。

お聞きする内容は、ご自身の経歴やストレス自認、農村や農作業へのイメージ、共同作業を楽しく感じられるか、アレルギーの有無、動植物が苦手かどうかなどです。それぞれの質問内容を5点満点で採点し、その方にあったプログラムを紹介しています。また、体験する農作業から期待できる効果も、その事前問診から推定することができます。

事前問診を行うアプリを想定しており(2022年9月)、今後はよりスムーズに、期待できる効果の提示や体験プログラムの予約ができるでしょう。

― 経歴の違いによって、アグリヒーリングの効果に差はありますか?

アグリヒーリングの効果が表れやすいのは、農作業を新鮮に感じることができる都市出身者です。農村や農作業への期待感が高く、種まきや収穫を非日常な体験として感じることができる方には、ストレス軽減効果が高く表れるでしょう。

ただし、農村の出身である、また私のように農業が生業で厳しさを知っている人は、農作業への憧れが一切無い(笑)。そういう方にとっては、ストレス軽減効果は低くなることがわかっています。

― 農村に長期間滞在しないとストレス軽減効果は表れないのでしょうか。

日帰りの農作業でも、ストレス軽減・モチベーション形成には大きな効果が期待できます。そして2泊3日などの中期滞在までで、これらの効果は最大化しやすいことがわかりました。

地域ワ―ケーションのような長期滞在、また、定期的に農村へ通うプログラムに参加し続けると情緒が安定し、睡眠への効果や、ストレス・幸福度の状態が定着する傾向にあります。イベント的な農業体験参加者と比べると、定期的に市民農園を利用するリピーターの方が、初期ストレス値は平均で40%程度低いという実証結果も出ています。

自分が携わっている、由来のある農作物は安心できる

― 地域での農作業以外に行っている活動はありますか?

食の安心と安全はセットで語られることが多いのですが、消費者は「安全」よりも「安心」という感覚を優先する傾向があります。そこで、消費者がどのような情報に「安心」を感じているのか、ストレス計測によって数値化することが可能になりました。

実証実験では、産地情報がある野菜とない野菜とで、食べた方のストレス状態を観測しました。すると、産地情報のある野菜を食べたグループの方が、コルチゾール(心理の緊張)の減少からわかるストレス軽減の変化率が多くなることがわかったのです。

※コルチゾール値の初期数値には個人差・状況差があるため、変化率からストレス影響の優位を捉えている

この結果はアグリヒーリングの活動においてさまざまな応用が可能になります。例えば、農業体験プログラムを終え、都市に戻って暫くすると再びストレス値が上昇します。ですが、自身が農作業に携わって産地情報を得た農作物は安心感が高いため、お世話になった農家から農作物を購入して食べることで、日常的にストレスケアができるのです。農家や農業法人にとっても、農業体験プログラムの受け入れに加えて農産物の年間直販が可能となって、経営の安定化につながります。

地域・農業・ストレスケアなど、アグリヒーリングの可能性

―千葉さんがアグリヒーリングの普及によって実現したいことは何ですか?

農業の癒し効果を定量化し、アグリヒーリングの仕組みが出来ることで、ストレスケアの必要な方へ適切なセラピーを届けることができます。そして、農村に滞在して地域の人々との交流やアクティビティを楽しむアグリツーリズムにも、エビデンスに基づいた癒し効果という新たな価値観を提供することが可能になりました。

さらには、自らが携わった安心できる農作物を家庭で味わったり、都市にある市民農園や屋上農園で農作業を行ったりすることで、農業体験プログラムから都市へ帰った後もストレスケアを受けることができるなど、さまざまな広がりが期待できます。

ある研究によると、人が幸福(Well-being)を感じるには「ポジティブな感情、意味、没頭、達成、よい人間関係」という5つの指標があると言われていますが、農作業はこれらの要素を総合的に持っています。また、農作業を行うことで人や地域との繋がりを感じることができ、同時に幸福感ももたらされます。

―アグリヒーリングの普及で、農家にはどのようなメリットがありますか?

近年、農家が収益を増やすためにレストランや民宿を直営したり、生産物や加工品を直販したりする6次産業化の動きが進んでいます。しかしそれだけでは農家が稼ぎ続ける仕組みとして不十分ですので、私はこのアグリヒーリングの視点を、企業向け福利厚生や研修プログラムへ加えたいと考えています。

日本における企業のストレスによる経済損失は10兆円規模、同時に研修市場は6,000億円規模とも言われています。そこで、農村ワ―ケーションや農村ツーリズムを「企業福利厚生向けリフレッシュプログラム」として募集したり、チームで行う農作業を「企業研修用モチベーション形成プログラム」として実施したりすることで、企業の福利厚生費は農家や地域へ投入されることになるでしょう。

今後は、農業が食だけでなく「健康と心を支える」という新たな機能を持つことで、都市で生活する人々のストレスを地域農業と都市農業が互いに軽減しあって対等な関係が構築できる、そんな未来を期待しています。

「農家はもっと尊敬されるべき」と、取材中何度も口にされていた千葉さん。というのも、京都大学大学院で農業経済学を研究していたところ、実家が経営に携わっていた花壇苗生産事業を立て直すため岡山へのUターンを決断。約5年で事業の再建を果たすも、時代の変化に伴う生産物の価格下落もあり、経営の不安定性から脱却出来なかったそう。

時間や手間を大きくかけても稼ぎづらい農業経営の厳しさを実感し、独学で農業コンサルティングを開業。農家・農業法人が国や企業からの補助金を受けながら安定経営するためのサポートを始めます。

その活動の中には、ちょうどそのころ岡山県倉敷市に設立されたヤンマーの研究施設「バイオイノベーションセンター倉敷ラボ」との取り組みも多数あり、その中の一つが、医・農連携による農業の新しいビジネスモデルの研究や実証実験へつながりました。

千葉さんは、アグリヒーリングの仕組みを確立・普及し、企業が従業員の福利厚生として農作業やストレスケアワ―ケーションを採用することで、農家にとって新たな収益がもたらされることに期待を寄せています。

価値ある食産業と豊かな食生活を創造し、幸せの循環を生み出すことをミッションとする私たちヤンマーマルシェでは、今後もアグリヒーリングについて注目していきます。